2009年4月15日水曜日

どう読む?海北友松

町でポスターを見かけ、名前の読み方がわからなかったので
調べはじめました。

建仁寺と関係が深かった画家で、雲龍図が有名らしいです。

Wikipediaによると・・・
海北友松(かいほう ゆうしょう、 天文 (元号) 天文2年(1533年) - 元和元年6月2日 (旧暦) 6月2日(1615年6月27日))は、安土桃山時代~江戸時代初期の絵師。姓は源氏、友松は字。近江(現在の滋賀県)の湖北地区に生まれる。名ははじめ「友徳」。「紹益」とも。「如切斎」や「有景斎」などと号した。子に同じく画家の海北友雪。
浅井長政の家臣・海北綱親の五男として生まれる(三男説もあり)。禅門に入り、京の東福寺で修行。このときに狩野派を学んだらしい。のち還俗し、海北家の再興をめざしたが、豊臣秀吉に画才を認められたことから武門を去り、晩年は画業に専念した。海北派の始祖。

浅井家滅亡のとき、もちろん家臣である海北家も滅亡したのですが、
友松だけは、出家していたので、生き延びたらしいです。
還俗して海北家の復興をめざしたり、
一説によると、処刑された千利休の遺体を「槍をふりまわして」取り返しに行ったのは彼だとか
なかなか熱い男であったことが想像されます。





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