「なぜいま青山二郎なのか」白洲正子著(新潮文庫) を再読。
以前読んでから、10年以上は経ちました。
初出は1991年だったかと思います。
本読みの楽しみの一つは、同じ本を読んでも
新しい発見があるところ。
ただ忘れているだけかも知れませんが
それはそれで、いいと思っています。
で、今回印象的だったのは
30人程の集まりのなかで、
「天才」青山二郎が「秀才」小林秀雄(「モォツアルト・無常ということ」の著者)を
やりこめて、小林秀雄がポロポロと涙をこぼす、というくだり。
それから何年かして、
「不易の人」青山二郎と、「前進する人」小林秀雄が訣別するくだり。
それから何年かして、
青山二郎と小林秀雄が仲直りして、ほどなく青山氏が他界するくだり。
「美はそれを見たものの発見であり、創作である」 小林秀雄
「小林の直観は美しい/だから実用への応用にはならぬ/
世間はもっとずるいのだ/パウロはアテネでは語らなかった」 青山二郎
コーチングで一隅を照らす(私のホームページです)
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2 件のコメント:
今になって、ああと思うのは、
白州正子の書いた原稿を、青山二郎が容赦なく切ったり、削ったりして、
書き手が自分の言いたいことを我慢すると、読者はその分自分でわかろうとする。自分で考えた気になるのが、読者の一番の楽しみではないか。
というようなことを言ったという部分です。
その頃は、当時の白州正子の気持ちの方がよくわかりましたが、
今なら、コーチングを通じて青山二郎の言ったことがわかる気がします。
もちろん、未だにわからないことが多い青山氏ですが。
この本にそういう部分、ありましたね。
なるほど。そういうことだったのか!
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