2008年6月12日木曜日
李纓監督の『靖国』
李纓監督のドキュメンタリー映画、『靖国』を見ました。
COCON烏丸にある京都シネマは満員御礼、立ち見の観客までありました。
映画は
靖国神社の御神体が日本刀であることを縦糸に
8月15日前後の靖国は、様々な思いを持つ人々の舞台となることを横糸にして
描かれていました。
李纓監督自身の靖国についての考えは極力抑えられ、
事実のみの配列によって、観客に問いかける、というスタイルでした。
事実のみの配列といえども、
中立な表現にはなり得ないことは、私も知っていますが、
中国の監督にとって「靖国という現象」をこれ以上客観的に描くことは
戦後60年の現時点では困難であろう、という出来であったと私は思います。
私見では、日本人の美質は
誠心誠意と、謙譲の心にあり、
それらを「形」や「仕事ぶり」で表現することに長けていると思っています。
ただ、それをなかなか言語化しない。
言語化すると、本質から遠ざかってしまう、とか
言語化すると、対立が生じる、と
信じているところがある為でしょうか。
これらのことが、かえって
諸外国とのコミュニケーション不全を起こしているのでは?
と思うことがしばしばあります。
もし、「靖国」という映画で語られることに
「言うべきことがある」と思うのであれば、
徹底した言語化を試みるのが
長期的には最も有効な方策でないかと考えています。
ここでいう「長期的」とは、50年~100年先のこと。
写真は映画のパンフレットの一部です。
コーチングで一隅を照らす(私のホームページです)
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2 件のコメント:
うん。
言語化をあきらめることは、
思考や検証のすべてをあきらめることになるよね・・・。
そう。
禅宗でも「不立文字」なんて言うけれど、
その実「これでもかっ」というぐらいに言葉を使っているし・・・。
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